本間光丘



 酒田市生。本間家三代当主。大名貸しなど莫大な貸金等で蓄財を重ね、一代50年
間で、日本一の大地主と謳われた本間家の基礎を築きました。また、地域でも大き
な功績を挙げ、西浜の防風林植林、藩財政の立て直し、貧民救済などを行っていま
す。

 奥州平泉の藤原氏が源頼朝に亡ぼされた後、藤原秀衡の未亡人とも妹ともいわれ
た「徳の前」を守って36人の武士が酒田に落ちのびてきました。徳の前はやがて
剃髪し、尼となり泉流庵をつくったのが泉流寺のはじまりといわれています。36
人の武士たちの子孫はやがて36人衆を組織し、東北の堺港といわれたほど繁栄し
た酒田港の発展に努力しました。堂内には、本間光丘が施主となり、明和元年(1
764)徳尼公の木像を造って祀り、毎年4月15日の徳尼公の忌日には、36人
衆ゆかりの人達が集まり追善供養が行なわれています。

 松の特質を生かした荒削りの中に素朴さを感じる「光丘彫」
 幕末から明治にかけて、本間光丘翁が庄内砂丘の飛砂防止に黒松の植林事業に着
手、一大黒松林を完成した。その黒松の倒木等豊富な木材資源と本間家の産業奨励
等とが相まって、優れた和家具の産地としても発展した。このような時勢を反映し
て多くの講習生が彫物先進地から彫刻と塗装技術を習得し、黒松を材料に盆、茶托、
菓子器等を製作し、「光丘彫」と銘打って酒田の特産品として好評を博している。 

※夢の足跡に詳しく紹介されている。