蔦屋重三郎



 天明から寛政にかけて、絵師喜多川歌麿を売出し、恋川春町(こいかわはるまち)
や山東京伝など人気作者の作品を多数出版し、東洲斎写楽の全作品を制作した初代
の蔦屋重三郎は、一代で経営の基盤を築き上げた人物である。出版を始めたのは安
永3年(1774)のことであるが、寛政3年(1791)3月までに書物問屋仲間の方にも加入し
ており、草双紙や浮世絵に限らず、より多角的な出版をめざしていたことがわかる。
しかし、その初代は寛政9年(1797)5月に病没してしまう。店は番頭が継いだため、
化政期の出版物は、この二代目蔦屋重三郎の代のものということになる。
 二代目は、初代同様に狂歌本の出版を積極的に行っていたようで、葛飾北斎画の
狂歌絵本も多く出版しているが、その中で享和2年(1802)出版の『潮来(いたこ)絶句
集』は、華美な装丁で咎(とが)められ、番頭が処罰されている。また、天保3年
(1832)には、他の江戸の版元4人とともに、大坂の版元から浄瑠璃本を模倣したとい
うことで訴えられている。この一件がどのような形で収拾されたかは不明であるが、
二代目はこの訴訟の最中に没している。
 なお、初代の時期、山東京伝とともに多くのベストセラーを生み出した蔦屋は、
二代目になると、京伝とともにその実弟である山東京山の作品を多数出版している。
一方、当時次々とベストセラーを発表していた曲亭馬琴とは、あまり交わりがなかっ
たと思われる記述が馬琴の日記に見られる。浮世絵の出版では初代歌川豊国の弟子
である歌川国安の作品の出版例が多い。

※蔦屋耕書堂に詳しい内容が載っています。