山岡鉄太郎



 天保7(1836)〜明治21(1888) 出身地・江戸 父・小野朝右
衛門高福、母・磯、通称・鉄太郎、墓・東京都台東区全生庵 
 山岡鉄舟は、山岡鉄太郎とも呼ばれその家元は徳川家の旗本小野家の
分家・朝右衛門の息子でございます。朝右衛門は最初の妻と死別したた
め、鹿島神宮の神官・塚原石見の次女「磯」と結婚した。その、磯との
子の長男が鉄舟で天保7年(1836)6月10日、江戸で生まれた。鉄舟は幼
少から新影流、樫原流槍術、北辰一刀流を学ぶなど武術を好み、天才的
なセンスを持っていた。
 慶応4年。徳川慶喜が恭順の意を示し後のことは勝海舟に全任すること
を伝えるために、海舟は西郷隆盛に手紙を書いた。しかし、その手紙を
届ける人間がいない。そのために高橋泥舟に頼もうとしたが慶喜が彼を
そばからはなすことを拒んだために鉄舟が運ぶこととなった。
西郷は鉄舟に5つの条件を出した。 
  ・江戸城をあけわたす  
  ・城中の兵員をすべて向島に移す  
  ・兵器をすべて差し出す  
  ・軍艦をすべて引き渡す  
  ・慶喜を備前藩に預ける  

 鉄舟はこの条件を飲んだ。しかし、慶喜を備前藩に預けるのだけは拒
んだ。それを飲んでしまうと結局戦争が起こると考えたためであった。
すると西郷は「朝命だ」とすごんだが、「もし、島津公が慶喜の立場に
なったら貴方はこの条件を受けられるのか?」といい、西郷もその論理
は正しいと、最後の条件はなくした。すると鉄舟は涙を流し喜んだ。こ
の2人の打ち合わせのようなものが合ったおかげで海舟と西郷の話し合い
がスムーズに進んだといえる。明治の鉄舟は明治天皇の側近などを経て
明治21年に胃がんで死亡した 

※山岡鉄舟研究会に詳しい情報が載っています。